1年前はいまよりずっと、色々な事考えてたなーと、昔のメールのやりとりを発掘して思いました。
皆それぞれに言ってる事は理想や夢語りで、えらく判った気になって批評したり定義したりしているんだけど、それでも、あちこちに飛躍する話の中で「こんな事まで真剣に議論したんだね」と思う部分がたくさんある。特に、言葉の使い方が絶妙で、何?討論会か?くらいに唾を飛ばして。みんな国外にいたわけだから、日本語媒体には、今より遠かったはずなのになぁ。
とはいえ、色々のしがらみや社会常識や世間体なるものはまったく度外視されているところが、子供っぽい。ほほえましいのぅ。
それでも体制とか大きなものに反抗しようとすごくがんばって、生き生きと息巻いておったようです。
翻って今は、それぞれに当面の目標や進路があって、周囲とうまくやりつつ諸々の仕事をこなし、そこそこの収入や地位を得るべく奮闘…と、なんだか随分つまらないことになってる。ああもう、なにしろ思考自体が駄目な気がする。与えられるものや手に届きそうなもので妥協していいのか!?ていうか何にも大事な事考えてないでしょ!と、怒られそう。
あんころ餅に例えれば「あんころを一生懸命くっつければ、中身の餅は腐ってても見えないから大丈夫」ということにならないだろうか。ならないか。いやいや、なってるかも。
翻って今は、それぞれに当面の目標や進路があって、周囲とうまくやりつつ諸々の仕事をこなし、そこそこの収入や地位を得るべく奮闘…と、なんだか随分つまらないことになってる。ああもう、なにしろ思考自体が駄目な気がする。与えられるものや手に届きそうなもので妥協していいのか!?ていうか何にも大事な事考えてないでしょ!と、怒られそう。
あんころ餅に例えれば「あんころを一生懸命くっつければ、中身の餅は腐ってても見えないから大丈夫」ということにならないだろうか。ならないか。いやいや、なってるかも。
帰国して早くも1年が過ぎ、出国してからは2年が過ぎたみたいだけれど、果して成長はあったのだろうか?と疑いを抱かずにはいられない。あの時に色々感じたり考えてた事が、“ままごと”のまま終わってしまうのは嫌だなと思います。
取り戻したいのは、楽天的悲観主義みたいなもので、ニヒリズムではない。
そんなことを思いつつ、かわいいヘッドカバーを買っちゃったりして。世捨て人への道は遠い。でも楽しいんだもん、ごるふ。あーあ。ドライバーのカバーはもふもふしててかわいいので、ミドルフェアウェイに着せる事にしました。あーあー。
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